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The Jersey
Cattle
Association
of Japan

歴史

昭和55年3月に家畜登録団体中央協議会が発行した「家畜登録事業発達史」には、乳牛・和牛・軽種馬など協議会を構成する10団体の畜種について、それぞれの家畜改良と登録事業の発展について詳しく記述されている。
わが国における家畜登録事業の歴史は、古く明治末期のジャージーとホルスタインに始まったといわれるが、今回は登録事業の始まりが最も早かったジャージー種について、どのような経緯で外国から導入され、登録事業が始められたのか、この発達史からお伝えしたい。

明治:文明開化とともに

日本の畜産自体は明治の文明開化とともに外来した部門であり、当時の畜牛の改良の基礎は外国種の導入・模倣から出発し、政府の種畜供給期間の設置、泰西農業の技術の導入等の諸政策の実施と相まって、乳牛飼育は飲用を目的とした民間の搾乳業により始まった。わが国にジャージーが初めて輸入されたのは、官営牧場である取香種畜場(のちに下総御料牧場と改称)であり、明治 10年(1877)に入った牝3頭・牡2頭であった。農商務省刊行の輸入種牛馬系統取調書によると、アメリカから購入したジャージー種牡牛マーマヂューク号は100ドル、同時に購入した牝・第3ヤング・チューリップ号及び第3オレンジ号の価格は、それぞれ150ドルと記載されている。
当時は政府の勧農策に呼応して民間における牧畜熱が昂揚し、折からの国有林野の払い下げ、貸付(明治4年から実施)、また、明治7年(1874)林野の官民有区分が行われたこともあって、各地牧場が開設されるようになった。明治 10 年に茨城・千葉県にまたがる広大な原野の払い下げを受け、桑園と酪農の経営を試みた津田出は、明治 18 年(1885)にジャージー牝牛19頭、ジャージーとホルスタインの雑種牡牛1頭をホルスタイン牝牛5頭とともにアメリカ・カリフォルニア州から輸入した。さらに、明治 20 年(1887)に前田留吉が牝1頭を輸入、翌 21 年新原敬三が牝2頭、その他稗田三平もジャージーをそれぞれアメリカから輸入を行った。しかしながら、当時輸入したジャージーは概ね不良であって、かつ結核病に罹るものが多く、乳質は優れているが、品性容姿は甚だ劣るものであったという。

一方、長野県出身の神津邦太郎は、明治 20 年 12 月に洋式の大牧場として神津牧場を群馬県北甘楽郡西牧村(当時)に創設した。明治 22 年にはバター製造を開始し、その品質の向上と製品の普及に努力する一方、根底たるべき牧牛の品種改良と優良な品種の普及に意を注いだ。
当初、神津牧場は種々の乳牛を放牧していたが、明治 24 年 11 月(1891)にアメリカ産のジャージー牝・牡2頭を購入したのを契機に、バター製造を主眼としてその飼養はジャージーが主体となっていき、さらに、明治 38 年8月(1905)にアメリカに渡り、当時の農商務省より委託された北米酪農業の調査に従う傍ら、各地の牧場を訪ね、ジャージー種牡牛4頭、牝牛20頭を購入。さらにカナダに赴いて、フレンチ・カナディアン及びエアシャーの牝・牡17頭、総計45頭の大量の優秀な純粋種を輸入した。

これらのジャージーはいずれも当時世界的に名声を博した系統であり、これによって神津牧場の従来の雑種系の牧牛はすべて処分され、これを基礎とした改良繁殖により、わが国ジャージー改良の先鞭がつけられた。

また、東京愛光舎主角倉賀道は明治 36 年9月(1903)、牝・牡各1頭のジャージーをアメリカから輸入した。明治 40 年 10 月(1907)には純粋牝・牡20頭をアメリカから再び輸入、さらに翌 41 年7月にみたびアメリカに渡り、アウル系の優秀な純粋牝・牡6頭を購入、愛光舎におけるジャージーの繁殖を行った。
この中の1頭、ゼ・アウルス・クイーン号についてみると、初産で乳量 7,292.2ポンド(3,308kg)、乳脂量 442.7 ポンド(200.8kg)を出しており、帝国ジェルシー種牛会報第2号には、「本牛はアウル系中出色の才物にして能く父母両牛の各特徴を継承し、ジェルシー種牝牛としては真に模範的典型を得たるものとす。其体格の発育円満にして各部の調和宜しきに適ひたる。其品位の優雅高尚にして自から尊貴の形貌を具へたる」と記載されている。

ところで、角倉賀道は愛光舎牧場を明治 32年(1889)東京府巣鴨に創設、次いで明治 38 年(1905)に埼玉県大宮に愛光舎大宮種牛牧場を作り、ホルスタイン種牛の大量輸入も併せて行った。このように明治末期には東京においても次第に乳牛を飼養するものが増え、搾乳して市民に販売する牛乳搾取業の方が多く存在したと考えられる。
なお、北海道にジャージーが入ったのは明治 31 年(1898)、宇都宮仙太郎牧場にアメリカ産の牝・牡各1頭が初めてであったが、その後、明治 40 年(1907)に自らアメリカに渡り、牝5頭を輸入した。

ゼ アウルス クイーン号 M36.1.15生 185994AJCC B58

帝国ジェルシー協会の創設

外国種の導入に始まったわが国の畜産も明治後期(明治 33 年~44 年)を迎え、政府の畜産改良の具体的な政策が進められ、畜牛改良方針の確立、種牛牧場官制の公布、種牡牛検査の施行あるいは地方種畜場規程・種畜払下規程の制定等が次々と実施された。さらに具体的奨励方針として共進会の開催奨励、畜産団体の活動促進等が取り上げられた。

このような背景の中、明治 41 年(1908)に日本帝国ジェルシー種牛協会(当時はジャージーのことをジェルシーと呼んでいた)が他の登録団体に先駆けて発足をみた。これは、優良乳牛であるジャージー種の改良発達を図り、会員相互の利益を増進し、海外ジャージークラブ又は協会との交通連絡を保ち、世界的協同一致の歩調をもって、本種牛の進化を発揮することを目的として設立されたもので、明治 41 年4月3日、東京府日本橋区偕楽園において開かれた発起会では、まず規約と純粋ジェルシー種牛登録規則を協議決定し、理事長に東京帝国大学農科大学教授獣医学博士津野慶太郎を選出、理事として東京愛光舎主角倉賀道(庶務)、及び東京阪川乳牛店主阪川霽(会計)を選んだ。
また、このとき議決された事項は、東京府畜産会春期品評会に同会の趣旨を広告し、かつ品評会に出陳の優等なジャージー種牛に金銀賞牌を贈与すること、ただしこの費用は一切を合わせ金150円以内をもって支出し、その他規約の印刷、血統登録証明書の印刷、タイプライター等必要備品の購入の件と祖畜の登録は東京より始めること、また、ジャージー種牛の血統取り調べの依頼に呼応することとし、ただしこれに要する費用は依頼者が支弁すること等であった。

日本帝国ジェルシー種牛協会時代(明治 41 年4月3日~大正7年8月6日)の10年の間に登録した頭数は、牡牛が73頭、牝牛が213頭で、牝牛の県別頭数内訳は、東京105頭、長野89頭、愛知7頭、北海道6頭、静岡2頭及び群馬・埼玉・石川・和歌山の各1頭であり、このうち東京・角倉賀道・正道が75頭、長野・神津邦太郎が71頭の登録を行った。その後、地方の畜産組合連合会の組織の上にあって、その活動を取り纏め、畜産の指導奨励を行うものとして、大正4年7月に社団法人中央畜産会が発足した。中央畜産会の事業としては、乳牛の登録事業、講演、講習、出版等による畜産指導事業のほか、博覧会の開催などが取り上げられたことにより、日本帝国ジェルシー種牛協会の全事業は中央畜産会の血統登録部へ併合された。さらに、登録事業は中央畜産会の継承団体として発足した帝国畜産会に昭和16年8月1日に引き継がれ、さらに中央農業会(昭18.10.1)・戦時農業団体(昭20.7.8)・全国農業会(昭20.9.7)と名称は変更したが、登録はそのまま継承された。大正7年8月から昭和23年7月までの登録頭数は、牡牛が78頭、牝牛が233頭という記録が残っている。

昭和:第2次大戦後の大量導入

一方、第2次世界大戦後の被占領下の低迷期を迎え、主要食糧の増産と農産物の統制が強力に進められ、戦後の農政の一つの基調となりその進路として農業の有畜化が取り上げられ、再建の途が開かれることになった。また、当時の連合軍の総司令部(GHQ)の指令により、登録事業を一つにして行っていた全国農業会は解体され、乳用牛の登録事業については日本ホルスタイン登録協会の創立を見て引き継がれた。

この当時の飼料事情の悪化は、都市搾乳業から農地に根ざす農家酪農へと進み、乳牛頭数も次第に回復を見せ、昭和27年には酪農は戦前の水準まで回復をみせてきた。また一方、国民の体位の向上を図ることを目的とし、政府は第2次畜産振興10カ年計画(昭和27年3月)を樹立した。この計画は、乳牛の増殖に重点を置き、学童給食用の牛乳の国内充足と国民の食生活の向上を図るため、十年後に乳牛を百万頭に増やし、1千万石の牛乳を昭和36年度を目標として実現するいわゆる「10,100,1000計画」である。しかしながら、この計画実現のためには、国内産乳牛だけをもってしては増頭は困難であって、計画数の約1割に当たる10万頭は国外から輸入した資源により増殖させる必要があり、さらに大量の濃厚飼料を輸入するに足る外貨保有量がなく、草地酪農に重点を置かざるを得ない状況であった。

このため、外国産乳牛を輸入するに当たって農林省において種々検討が行われ、結論としてはホルスタインの輸入は困難であり、乳牛資源、価格及び海上輸送能力等を勘案すれば、アメリカ、ニ ュージーランド及びオーストラリアにおけるジャージーが条件に最も合致したものであった。さらに、ジャージーは今後のわが国の酪農振興上、草資源を利用した草地酪農の推進を図るためには、飼料の利用効率が高く放牧性に優れており、かつ気候風土の適応性が強く、扱いやすく、適地に集団的に飼うには最適であるということも大きな理由として取り上げられた。
そこで、政府はジャージー導入地域選定及び事業実施基準を規制した「集約酪農地域建設要領」を制定、さらに物品の無償貸付及び贈与等に関する法律ともいえる「乳用雌牛の貸付及び贈与等に関する省令」を制定した。これにより昭和28年からいよいよジャージーの輸入が開始されることになったが、ジャージーの国有貸付事業は、日高、根釧、十和田、岩手山麓、浅間八ヶ岳(山梨・長野)、富士、美作及び霧島の9道県、8地区に4,658頭が貸し付けられるにとどまった。
このため、昭和31年度後期以降は農地開発機械公団のパイロットファーム開発事業の実行に伴う開発事業と併せ、ジャージーの輸入外貨資金を国際復興開発銀行(世銀)の借款により賄う機械公団輸入売却方式(長期低利融資)に切り換えられ、オーストラリアからの購入が行われた。
その結果、前記の地区に秋田・北部鳥海、佐賀・天山、熊本・阿蘇を加え、下表のとおり12道県に12,434頭ものジャージーが35年度までの8年間に輸入され、配分された。

政府輸入(貸付)
昭和28~31年度
農地機械開発公団
昭和31~35年度
北海道 日高・根釧5571,9622,519
青森 十和田5851,5912,176
岩手 岩手山麓5428321,374
秋田 北部鳥海532532
群馬 浅間593593
山梨 八ヶ岳322309631
長野 八ヶ岳317269586
静岡 富士564564
岡山 美作5846911,275
佐賀 天山557557
熊本 阿蘇1,0331,033
宮崎 霧島594594
各県配分頭数4,6587,77612,434

日本ジャージー登録協会の設立

政府のジャージーの輸入による国内飼養頭数の漸増に伴い、これに対応した改良について種々検討の必要が迫られてきたが、昭和31年8月10日、東京都港区・獣医師会館において、日本ジャージー登録協会の創立総会が開催された。これにより、従来日本ホルスタイン登録協会において暫定的に行われていたジャージー種牛の血統登録並びにこれに付随した業務を同会より継承することとし、ただし少額の経費をもって確実な登録を行うため、登録に関する一切の業務は日本ホルスタイン登録協会に委託して行うことになり、今日に至っている。

ところで、政府が大量に導入したジャージーの泌乳能力はどの程度のものであったのだろうか。
集団的に導入を図った地域のほとんどにおいて、酪農経験のある地域は極めて少なく、ジャージーに対する知識・経験が十分でなかったこと、また、輸入により気候風土、飼育方法が一変し、しかもジャージーの特性を活かす草地の獲得、放牧の仕方など十分な手が打たれていなかったこと等により、輸入当時の能力は低い評価を受けた。
また、昭和38年、39年当時約2万8千頭まで増加したジャージーも昭和49年には1万頭を切り、昭和61年には3,858頭にまで減少していた。わが国の経済が鰻登りの如く上昇し、酪農業界全体も右肩上がりに伸びていたにも拘わらずジャージー種の減少が続いた背景としては、やはりホルスタイン種に比べて乳量が少なかったことなど上記の理由に加え、乳価の建て方や子牛の 流通、牛肉の脂肪の色など幾つかの理由が考えられるが、ジャージー種の価値が見直されたのは戦 後の大量導入以来40年、昭和から平成に年号が代わる頃まで待たなければならなかった。

登録団体の変遷